『愛って。』










…愛って、何だっけ?



まずバスルームにビニルシートを幾重にも重ね敷き詰めた。そして、その上に毛布を
乗せたら何だかそこはバスルームには見えなくなった。糸ノコギリに、よく磨いだ牛
刀に大きいお皿にボウルに…後何が必要だろう?手袋は、いらない。全ての手触りや
温度をこの手で感じて覚えておきたいから。取り敢えずあたしはバスタブの縁に腰掛
け、煙草に火をつけた。湿り気を帯びた小さな空間に煙が満ちる。
「何作ろーかなぁ…」
ひとりごちて煙を吐き出し、もうこの独り言に相槌を打ってくれる人はいないのだと
ふと思い少しだけ悲しくなった。
「悪いのはあたしかなぁ…」
床にある“材料”に灰がかからないように、自分の足元めがけて煙草をとんと叩く。
はらはらと舞い散った灰は、粉雪のように見えた。


「…これはどういうことですか?」
「あたしにもわかりません。」
「裕美子さんは、俗に言うサディストというやつでしたか?」
「違います。」
「ですよね。じゃあ、どうして僕は突然こんな風に縛り上げられてるんでしょう?」
「先生の事がスキ過ぎて、何か、一人占めしたくなって。」
「…ええ。」
「手とか、痛くないですか?」
「痛くはないです。」
「よかった。」
「僕をどうするんですか?」
「先生は………あの、昔一人の女がいたんです。昔っていっても大昔じゃないけど…」
「何ですか?突然。」
「その女は料亭で働いていました。まぁ、その前は売春婦だったんですけど。」
「ええ。」
「女はそこの主人と不倫、してたんです。それで、ある日二人は愛の逃避行をしました。」
「ええ。」
「最初は楽しく逃げていました。しかし、当然の事ながらお金が底をついてきたんです。」
「ええ。」
「男は一度金を取りに戻ると言って、女を連れこみ宿に残して妻の待つ家に帰りました。」
「…ええ。」
「女は半狂乱になりながらも、宿で男を待ちました。」
「ええ。」
「しばらく経って、男は帰ってきたものの女はある思いを抱き始めます。」
「どんな思いですか?」
「『この男を一人占めしたい。私だけのものにしたい。』」
「……それで?」
「ある日セックスしている時に、女は着物の帯を手に取りました。」
「…ええ。」
「女は手にした帯で自分の身体の上にいる男の首を締め上げました。」
「………」
「その後、女は男の陰部を切り取り姿をくらませました。」
「それは……」
「そう、阿部定です。先生、どう思いますか?」
「どうって…僕は生物の教師だから…痛そうな話だとしか思えないですよ。」
「あたしはね、凄く素敵な話だと思うんです。共感も出来るし。」
「僕は…」
「あたしは売春婦でもないし、料亭で働いてたりもしてないけど。」
「裕美子さ…裕美子。手錠を解いてくれ。」
「嫌です。」
「僕をどうするつもりだ。」
「あたしが、怖いですか?」
「………ああ、怖いよ。目が普通じゃない。」
「あたしは、普通ですよ。」


独占欲は、愛じゃない。

嫉妬欲は、愛じゃない。

殺人欲は、愛じゃない。(そんな言葉あるのか?)

相手の事を束縛したくなるのも、人の物を取りたくなるのも、命を含めた相手の全て
を欲しいと思うのも………

ねぇ、それを愛じゃないって誰が決めるの?



苦労して先生の身体をバスルームに運び込んだ。胸に刺さったアーミーナイフを引き
ぬくと、温かな赤い体液が吹き出てあたしの手を濡らす。
「あぁ、先生に通常人の身体の中で精子が何日生きるのか聞くのわすれちゃったよ…」
先生と最後に抱き合ったのはつい三時間前。あたしの中で受精したら、おもしろいのに。



「んー…トマト味のスープにしようかな…」
糸ノコギリを引き、解体。荒くブロック状に削ぎ落とし、白い皿に落とす。それをも
ってあたしはキッチンへと向かう。
「えぇっと、トマト缶詰と玉葱コンソメ、ジャガイモも入れるか…」
全ての材料を深い鍋に入れて、火にかけた。煮込まれていく鍋の中身をぼんやりと想
いながら、新しい煙草に火をつける。蒸気の上がる鍋が向こう側に見えた。
「まだかな、まだかなー…」
蓋を開けてはかきまわし、煙草を何本も灰にする。時間が過ぎるのが酷く遅く感じられる。
「もうそろそろ良いかな…」
蓋を開けて、赤いスープを深くて大きな皿によそった。テーブルに運び改まって座り、
手を合わせる。
「……イタダキマス。」
ゆっくりスプーンを口に運ぶ。よく噛んで飲み下す。喉を通り、胃に落ちる死ぬほど好
きな男の身体。
「……アイシテル。」
頬を伝う冷たい水の感触に、あたしは安堵の笑みを浮かべた。


良かった、あたしはまだ、正常だ。









『不確かなものを形づけるのを、愛っていうの?』
『形のあるものしか愛と認められないのなら、形にするよ。』


愛は、あたしの身体の中に吸収されたのだ。



「あの子、どこに今いるんだったかね?ほら、あの例の…」
「警察病院の精神科っすよ。いわゆる独房、ですね。」
「もう元にゃあ戻らんのか?アレ。結構可愛い子だったじゃないか。」
「LSDの大量服用ですからねぇ。しかし最近の女子高生は怖いですね…教師と不倫
してたわクスリに手ぇ出してたわ…」
「お前あの現場行ったんだっけ?」
「あー…俺は行ってないんすけど、高倉さんが帰ってきて便所で吐いてました。」
「あぁ、まぁ、なぁ。ちょっとしたホラー映画なんか及ばない感じだったからな。」
「…今、どうなってるんでしたっけ。」
「今は知らんよ。捕まえたばっかん時の精神年齢はガキだったな。5歳くらいの。」
「ガキ…」
「典型的な幼児退行だよ。無垢で何も知らなかった頃に戻って…」
「…幸せ、だったんですかね。あの子…」
「幸せだったんじゃないか?泣きながらもにこにこ笑ってたしなぁ…」
「幸せになる為の人殺し…とカニバリズムですか。」
「いいんじゃない?幸せの定義ってのは人それぞれだしな。」
「…そうなんですかね。」
「そうだよ。」



遠夜に光る松の葉に、懺悔の涙したたりて、遠夜の空にしも白き、天上の松に首をかけ。
天上の松を恋うるより、祈れるさまに吊るされぬ。



『愛してる、愛してる、愛してるって、何?』

『あたしが手に入れたもの。』












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