『あなたの匂い』




彼女は、ほんの一瞬だけ僕の部屋にいた。
彼女は、とても綺麗な青の石のピアスをしていた。
彼女と僕は、一度だけ普通にセックスをした。
目が覚めると、彼女はもういなかった。


「おじゃましまーす。」
「どうぞ。汚いけど。」
「…そんなことないよって言いたかったけど、ホントに汚いね…」
「男の一人暮らしだしねぇ。何か飲む?」
「何がある?」
「ジンロ、ビール、チューハイ、コーヒー、水。」
「酒ばっかじゃん…チューハイ。」
「飲むんじゃん。」
「あ、やまだないとだ。うわー、この人の漫画持ってる男の人初めて見たわ。珍しいねぇ。」
「…そう?」
「フレンチドレッシング、ミウミウ…男の本棚じゃないよコレ。」
「それの最後の話が好きなんだよ。」
「ああ、病気の話ね。」
「そうそう。」
「ねぇ。もし、あたしがあの病気だったらどうする?」
「んー。一晩中何にもしないで抱き合ってようか。」
ふっと彼女が動く気配。横向きに抱きしめられ少し戸惑う。
「嫌だ。」
耳元で囁かれる感触、柔らかく匂いたつ香水の柔らかな香り、肩口に当たる胸の膨らみ。気がつくと彼女は僕の下にいた。
「…病気でもいいか。寂しいよりは。」
「寂しいの?」
「多分。」
「それは欲求不満による寂しさ?」
「んー?」
熱い息を交わしてちらりと見えたピアスに歯を立てる。薄い耳たぶに飾られた青い石の丸いピアス。
「…耳ダメなんだって。」
「いーこと聞いた。」
「…変なセックス。」
「何で?」
「全然やらしくないから。」
「やらしくする?」
「どっちでも。」
軽く触れるようなキスから深く貪欲なキスへと移行する合間、僕は大事なことに気づいた。今までどうして気づかなかったんだろうというくらい大事なこと。
「名前、何ていうの?」
「名前、欲しい?」
「え?」
「じゃあ、アオ。」
「それ偽名じゃ…」
偽者の名前を名乗ると、彼女はいきなり体勢を変えて僕の上に乗った。明るいブラウンの長い髪が顔にかかる。それをかきあげ彼女は言った。
「…してあげる。」
夜に浮かぶ水音、たった一ヶ所だけ繋がった部分から広がる熱、されるがままの僕は感覚の波にさらわれそうになりながら確かな彼女を探した。

「…名前、何ていうの?」
コトを終えた後静かに煙草に火をつけ、今更彼女は問うた。煙草のパッケージに印刷された青い文字を彼女と同じ口調でそのまま返してやる。
「じゃあ、ケント。」
「ケントね。おやすみ。」
僕の下らない嘘を黙殺し、裸のままで彼女はベッドに寝転がった。僕も慌ててベッドに潜り込み、電気を消した。
…それが、僕が彼女を見た最後だった。

次の日目が覚めると彼女は既にいなかった。置手紙も連絡先も残さずに、綺麗さっぱりと。僕は夢でも見ていたのだろうか?否、あの時の彼女の熱は夢なんかじゃない。何がお気に召さなかったかは知らないが、ただ早朝に僕の横からいなくなっただけ。ただそれだけ。僕は彼女を愛してもないし、ただ一回セックスしただけだ。
でも。
シーツにはりついた長い髪の毛や、缶の底に少しだけ残ったチューハイ、まだ半分残っているケントの箱とライター。
彼女の痕跡が酷く生々しく僕に向かって押し寄せてくる。理由を寝ぼけた頭で考えてみても何もわからないし、きっとはっきりした頭で考えても何もわかりはしない。カーテンの隙間から差し込んできた朝の光が眩しくて、目を閉じたまぶたの裏側に丸い小さな黒い点。これは彼女のあのピアスだろうか?


…ヤり逃げっていったらそれまでだけど、それだけではないというお話。








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